パレス池田山

いま、デスクワークの時期なんですよ。

正直、苦手。落ち着きのないボクは同じ場所では集中力が持ちません。50分やったら10分休むペースでいこうと心に決めて8時から4セット。お昼を食べて12:45から2セット。あー、もうイヤだ!!

商売道具を持って「ボクは旅に出ます」と仲間に告げサヨウナラ。落ち着いて仕事の続きをしようと、石神井公園に行った。

石神井池と三宝寺池を取り囲むようにつくられた公園で、地元の方々のふれあいの場となっている。テクテク石神井池のほとりを歩いて行くと、アイガモたちが池で泳いだり陸に上がったりと楽しそう。遊具のある広場にはまだ紅葉が見事な場所も。子どもたちが落ち葉を抱えて遊んでいる。ご年配は三宝寺池ほとりのお茶屋さんへ。「豊島屋」さんというのかな、見事なまでにレトロ感に溢れている。

公園に隣接して建つのが「ふるさと文化館」。いわゆる郷土資料館だ。とってもキレイな建物、常設展は無料で観ることができるんだけど、思いのほか充実しているので小一時間はゆっくり出来る。とくに練馬大根の解説は充実している。

各種資料や一般書籍、マンガをそろえた閲覧コーナーも無料で利用可能。ここの1人用机は大きな窓の外に「旧内田邸」という古民家を眺めることが出来る特等席。ここでゆっくり一仕事。

だいぶ暗くなった、近くの銭湯に寄ってからお蕎麦を食べて帰ろう。「豊宏湯」さんは昔ながらのたたずまいを残す銭湯、番台に座るお母さんにお願いして10円でタオルを貸してもらう。当然のごとく中島さんによる富士山のペンキ絵。それ以上にカランが36個も並ぶ洗い場は、今どきなかなか残っていない。

お風呂上がりに「野饗」さんへ。「菊谷」さんが「野饗」さんにお店を譲られた4〜5年前にお伺いして以来かな…。お品書きを見ている中で今が旬の佐賀の新海苔がキラリと光る。口に含んだときの香りの広がり具合がバツグン。絶対に花巻にしたら美味いはず。今日は「冷やかけ」にしといたけれど、1月まで食べられるという花巻、絶対に食べに来よう。

お店を出て石神井公園駅までプラプラ歩く。面白そうなお店も多い。この辺ももう少し探検する価値ありかも…って感じで、どんどん寄り道が増えちゃうんだよなぁ。パレス池田山

パークハイム上馬

皆さんお元気ですか。

最近寒くなりました。
京都の冬は毎年寒い。

年をとるたびに肌が乾燥してるのがわかる…

冷たいどころか痛いもの。

洗顔後もつっぱってすぐぬるものぬらないと痛いもの。

やだなぁ
年とりたくない。

昔嫌いだったただの大人に、わたしもなっていくんだろうか。

好きなものはやめないけど。好きな服もやめないけど。

ギャグで結婚とか心配されるようになった最近
親はともかく弟がわたしの将来を心配しているらしい。
いつか家でれるように準備は始めようと思いますが、結婚も恋人も無理ですもう。

孫は弟にがんばってもらってください。私よりは希望があるので。すいません。って心の中で土下座した。

今は結婚にも恋人にも興味が沸いてない。

一人で超常現象の番組みたり、絵描いたり、音楽きいたり、買い物行ったり、ライブ行ったり、本読んだりしてるのが一番楽しいから。

たまに人とあったり。

なんで、なんでばっかり。

だって泣くのとか嫌じゃない。あれって体力いるんだよ以外と。

1日なんにも食べないで泣いてたら3?4キロもへるんだよあれ。多分水分がでてさ。

人との距離感を保つのが下手なのもあるし、人間関係で一番難しいんだよ。

いや、まず他人と住めないよ。化粧取れないもの。下手すりゃトイレ行けないよ(笑)

大人になれてない。
相変わらず痛い。

一緒に公園で昼寝したり超常現象についておしゃべりできたらいいのに。

明日行ったらお休みやしがんばろ。
パークハイム上馬

早朝タクシー出勤

普段はしない午前10時からの講義のため早朝タクシー出勤。通信教育のスクーリングです。90分ほど話して、あとは細見さんにバトン。早々に引き上げました。ただし、正午前後に普段の通学バスは出ないので、路線バスに乗るために急坂を下りました。通称芸大坂。下りはまあ、ラクですね。バス電車で古市駅到着。ここで昼食にヤキソバを食べて、少々買い物をしてから蓮田の一戸建てに帰宅は午後1時半でした。
一休みしてから対論の準備をして、しばらく読書しているうちに夕方になりました。6時前に細見さん到着。今回の対論のテーマは、いちのせまりえ詩集『くちびるのかたち』(編集工房ノア)です。明確なテーマを持ったドラマティックな詩集です。あれこれ1時間ほどで終了。早速文字起こしに出します。終了後は、お寿司に湯豆腐などでプチ忘年会でおひらき。これで「びーぐる」は詩論時評を残すのみとなりました。
さて。年に一度のクリスマスイブが来ました。普段は敵味方の人々も、この日ばかりは和やかに過ごしてほしいものです。耳を澄ませば空を何かが翔ていく音が聞えます。「トナカイかな」と思ったら、敵がVサインを送ることでしょう。ってなわけで俳回文季語つきです。
今夜もシューベルトを聴きながらの赤ワインはイタリアの羽曳野丘陵です。

トナカイさんのおかげで回文が作れたのでうれしかった。

シャンボール常盤松

職場に福井出身の女性がいるが、彼女によると「福井なんて、何もない所」なのだそうだ。来年春に開業の北陸新幹線も金沢までで、福井はさらに先のことになる。

◎幕末に一瞬だけ光芒を放った越前福井藩
 ただ、越前ガニと東尋坊は有名だし、最近は国内唯一の恐竜博物館も話題だ。若狭には湖底堆積層で7万年分と世界1の長さのを年縞を誇る水月湖だってある(こちらは、かなりオタク的か、苦笑。なお水月湖年縞については、13年11月9日付日記:「5万年前超まで遡る世界の時間の物差し、福井県の水月湖で完成;ジャンル=第四紀学、考古学」を参照)。
 またかつて繊維産業の名残の工業もあるし、鯖江は眼鏡のフレーム生産日本一だ。
 ただ日本歴史には、確かにほとんど大きなイベントを残していない。しかしその福井も、幕末には一瞬だが、光芒を放った時がある。

◎松平春嶽も快刀・橋本左内を失い輝きを失う
 越前福井藩の第16代藩主・松平春嶽は、幕末の動乱期に「最後の将軍」徳川慶喜に乞われて、政事総裁に就任した。松平春嶽は、開明的な藩主で、素浪人に過ぎなかった坂本龍馬とも親交を結び、熊本藩で閉塞していた英明な横井小楠を越前に招いて、自身の政治顧問として重用し、自藩の藩政改革にあたらせた。
 自らが幕府の政事総裁職に就いた後は、横井に助言者として幕政改革に関与させた。
 松平春嶽には、狭い藩に留まらない広い視野があり、能力があれば他藩出身の横井や浪人の龍馬をも重用したのである。
 ただ歴史小説の第一人者である司馬遼太郎によると、側用人だった橋本左内の助言が大きく、橋本左内が「安政の大獄」に連座し、伝馬町で斬首された後は急速に輝きを失ったという。
 それでも凡庸な殿様でなかった証拠に、あまり世間に知られていないが、越前福井藩が維新を見据えて幕末に早くもアメリカへの留学生を送り出したことは忘れられない。

◎パスポート取得4番目の幕末の正規留学生、日下部太郎
 その名は、日下部(くさかべ)太郎。英明とされ、若くして長崎に遊学、ここで英語を学び(当時の主流のオランダ語でなく英語を学んだという先進性が凄い!)、戊辰戦争で日本中が動揺した慶応3年(1967)年、22歳の時に福井越前からアメリカ留学に派遣された。
 藩派遣の留学生としてアメリカに渡る際、藩主の松平春嶽は旧名の八木八十八に代わって日下部太郎の名を賜った。
 昨年の大河ドラマ『八重の桜』で主人公の1人となった新島襄は密航者としてアメリカに渡ったが、日下部太郎は幕府の発行した正式な海外旅行免許状(現在のパスポートに相当)の発行ナンバーは4番目だった。まさに幕末日本の留学創成期に渡米したのである。

◎26歳、留学先大学の卒業間際に客死
 ただおそらく本日記の読者の大半は、日下部太郎の名を知らないだろう。それは、不幸にして26歳にしてアメリカで客死しているからだ。
 藩主・松平春嶽が大いに期待し、それに応えて異国のアメリカ、ラトガース大学理学部で猛勉強に明け暮れた日下部が卒業前に客死したことは、黎明期の日本ではまことに惜しい損失だった。帰国していたら、維新政府で重用されたか、学者になっていれば明治初期の理系学界をリードする偉才になっていたに違いないからだ。
 ラトガース大学でも、その俊才ぶりは有名で、大学からその死を惜しまれ、卒業前に亡くなったにもかかわらず、卒業と同等の資格を与えられたほどだ。

◎貧窮の中で肉体を削る猛勉強で結核に罹患
 大学当局や学友に畏敬されていたのは、その勉学態度と成績優秀さである。藩からの乏しい仕送りだけで赤貧洗うが如き生活の中にあって、常にクラスの首席を占め続けた。
 ラトガース大滞在は僅か3年だったが、読破した本は優に200冊を超えていたという。外国語の文献をこれほど読破したことに、日下部の血のにじむような努力が証明されているが、このような貧窮の中での肉体を削るほどの猛勉強のため、ほどなく結核を患い、それが彼を夭折させた。
 入院中、絶対安静を命じられていたにもかかわらず読書を休まず、それが見つかって本を没収されたという。

◎日下部に感銘受けたグリフィス、福井藩校明新館の教官として来日
 日下部太郎は、いわば「一粒の麦」であった。ラトガース大で先輩として日下部を指導していたウィリアム・エリオット・グリフィスは、日下部の勉学態度に感銘を受け、日本にも関心を抱く。
 そして維新草創期の明治4年(1871年)、越前福井藩の要請に応え、藩校明新館の教師に就任、ここで化学と物理を講じた。明新館では日本最初の様式理科実験室を作った。
 ただ福井在住は10カ月と短かった。福井在住直後の同年7月、廃藩置県により契約者の福井藩が無くなってしまったからだ。
 しかし翌年、東京に移り、ここで東大の前身である大学南校の教官に就任し、明治7年(1874年)7月まで、物理と化学、精神科学など講じ、多くの理系学生を育てた。

◎早朝の散策で偶然に出遭う
 日下部太郎がもし司馬遼太郎に拾い上げられ、その生涯が小説化されていれば、今頃、草創期留学生としてもっと著名となっていただろう。
 過日、福井に行き、早朝に北ノ庄城跡を訪ねた途中、足羽川を見下ろす土手の散策路に建つ、椅子に座したグリフィスに手を添える日下部太郎の像(写真左)に偶然に出遭い、福井の生んだ忘れられた英傑を思い出したのである。
 日下部とグリフィスの事績は、その日、訪れた市立郷土歴史博物館でも詳しく観ることができた。写真中央は、そこに展示されていた橋本左内像、そして外の公園には端正な松平春嶽像が据えられている(写真右)。幕末に輝いた一瞬の光芒の残像となった人たちである。

昨年の今日の日記:「南部アフリカ周遊:さあ、喜望峰へ! ただしあったのは、標識看板だけ;追記 天国から地獄に転落した張成沢について」

追記 本日は衆議院選挙の投票日。日本の発展のために与党、就中自民党を応援しよう! 東京12区初め、全国に9選挙区ある公明党候補(自民推薦)の選挙区の有権者は、小選挙区は白票、比例区で自民党に投票を!
シャンボール常盤松

コンド田園調布

ときたま正夢を見る時があるから悪夢を見た時は怖い

今日は大津波の夢見た

東洋人の顔だったし日本語喋ってたと思う

大きな道路に車なんか関係なくたくさんの人達がもう何言ってるのか分からないくらい叫び合って
押し合って、我先にみたいな感じで逃げてた

そこからもう海水とかのレベルじゃなくて大量の泥水が一気に押し寄せて
めっちゃ冷たかった

家族とはぐれたお婆さんがいたからお婆さんおんぶして

家族じゃなくて今は逃げるのが第一とその大勢の人達から抜け出して小道を走ってたら

友達が何人か出てきてこのお婆さんが助かるよう手助けしてくれた

お婆さんを見送ってまた助けが必要な人を探して走ってると

1件のアメリカン住宅が見えてきた

そこに入ると庭にプールがあってアメリカ人達がのんびり過ごしていた
プールで泳いだり飲み物飲んでお喋りしたり

ぶちギレた私が
プールのそばでのんびり座ってる水着メタボの女外人をプールに蹴り落として

こんな所で遊ぶ暇あったらあなた達も今必死に逃げてる人達を助けなさい
を暴言まじりに怒鳴った

アメリカン住宅と思ってたそれは動物病院で飼い主達がどうしたらいいかパニックになってた

とりあえず私は治療できないからある程度の知識はあったもんだからその知識を分けてあげてまた走った

しばらく走って気づいた

何か韓国人の仲間が出来てたたらーっ(汗)←あんまり好きじゃないんだけどなぁ…

その人達と一緒に走ってたら大きな公園が見えてきて

韓国人の1人が「遊ぼう!ぴかぴか(新しい)」って言い出したもんだから

今遊ぶ暇ないだろうが!むかっ(怒り)って怒って何故か下に降りるには
汚くて狭くて長い滑り台を滑らなくちゃいけなくてその滑り台を渋々滑ってた

すると場面が変わって病院?みたいな所に韓国人達といた

暗くて冷たくて人気のない所で…
奥に行くとあの嫌な臭い…
人を焼いた臭いがした

ちょうど燃やすのを終わったみたいで亡骸を出した時だった

熱気が漂う中看護師さんが置く場所がなくて私に黒のランドセルを押し付けてきた

祖父母らしき人達がすすり泣き小さな骨に触りたそうに手をあててた

もし本当に起きるんだとしたら津波対策が十分だったか…政府の対応が気になるコンド田園調布